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義経を辿って 総集編 その4

こんにちは
今回は義経シリーズ、「壇ノ浦の戦い」がメインになります。
前回までは、京都が舞台でしたが一気に進みます。
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当時の壇ノ浦は、今でいう山口県下関市にあたります。
栄華を誇った平家が滅亡に至った治承・寿永の乱の最後の戦いです。
この戦により、義経の名は一気に全国に知れ渡ることになります。
3486
関門海峡にある関門トンネルを抜けると、義経たちの像が出迎えてくれます。上がその写真。
3488
義経はこの時、27歳。
3487
こちらは、迎え撃つ平家の総大将 平宗盛。
・・・碇を持ち上げてる姿は「筋肉バカ」のイメージしかわかないんですけど(笑)

両軍の数は諸説が色々あるようですが、義経は一か月の間に平家を上回る兵船を確保していたといわれています。
そしてこの時、義経は潮の流れをも計算に入れ、勝利に導いたとされているので、戦の天才であったことは確かなようです。

IMG_6412.jpg
この時、義経が使ったのが以前紹介した鞍馬山で編み出した技「八艘飛び」です。
ただ、この八艘飛びは、地元の人から言わすと、ただ単に「敵に背を向けて逃げただけ」という説もあります(笑)
この壇ノ浦は、元々平家の家が多いため、義経に対しあまりいいイメージが無いようです。

IMG_6411.jpg
この時、義経は命に関わる致命的な失敗をしてしまいます。
源氏の勝利を悟った二位の尼とその孫である八歳の幼帝とともに、源氏が奪還を狙う「剣」と「宝玉」の神器を身に着け、海に投じてしまうのです。この剣と宝玉はこの国を治める者の証とも言え、今回の戦はこの神器のための戦いとも言えます。
宝玉は海の底から回収できたものの、剣(天叢雲剣)は見つけることが出来ませんでした。
この失態が、源頼朝の怒りに触れてしまいます。
そして、平氏を滅ぼした英雄が一転、反逆者の汚名を着せられ、逃亡の身となってしまいます。
IMG_4591.jpg
今もなお、この下関の海のどこかに神器の一つ「天叢雲剣」が眠っています。


源頼朝から反逆者扱いされたのは、前回の宝剣を失った失態だけでなく、もう一つ原因があります。
それは、後白河法皇から授かった官位を受けてしまったことにあります。
頼朝は、朝廷の支配から独立し、武家政権を樹立することにあったわけですから、朝廷からそういった位を貰い受けるというのは、決して許せることではありませんでした。

この後白河法皇という人物も、かなりの曲者で頼朝曰く「日本一の大天狗」とまで皮肉っています。
この法王は、頼朝と義経の確執を知りつつ官位を与えたり、頼朝追討の宣旨まで与えます。しかも、義経が行方不明になり自分の後ろ盾がなくなると、今度は義経追討の宣旨を頼朝に与えます。自分の保身のためには手段を択ばない狡猾さがうかがえます。こういう後白河法皇の本性を見抜けず、いいように利用されている義経に対し、頼朝は我慢できなかったのかも知れません。
3512
反逆者となった義経が逃避行を続け、最後にたとり着いたのがこの吉水神社でした。
この吉水神社は静御前と過ごした最後の場所でもあり、今もその言い伝えが残っています。
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この部屋が、この書院に残る潜居の間と言われています。
この部屋で静御前と5日間過ごしました。
3515
弁慶思案の間です。
見ての通り、潜居の間のすぐ隣にあります。畳一畳ほどの広さでしょうか。
義経はこの吉水神社を離れた後も逃亡を続け、4年後岩手県平泉の中尊寺にて自害してしまいます。
享年31歳でした。
・・・しかし、この義経の死には数多くの疑問が残っています。
たとえば、義経の首見聞が一か月も欠けて鎌倉に送られた史実から、替え玉説が存在します。
義経生存説は、室町時代から語られていたらしく、死してなお多くの伝説が生まれ、今日に至っています。
 

3516
その伝説の一つがこちら 北海道の「神威岬」です。奥州からひそかに逃れた源義経は、逃避行の際日高の首長のもとに身を寄せ、首長の娘チャレンカは義経を強く慕うようになります。しかし、義経は旅立ってしまい、悲しみにくれたチャレンカは、「和人の船、婦女を乗せてここを過ぐればすなわち覆沈せん」という恨みの言葉を残して海に身を投げてしまいます。その姿がやがて岩と化したと言い伝えられているのが神威岩です。
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チャレンカの嫉妬心が女を乗せた船を転覆させたことから、岬一帯が女人禁制の地になったとされています。
この女人禁制は1855年まで続き、それまで船の行き来は禁止されていました。
そのせいか、この神威岬の海は汚されず、現在でも北海道屈指の海の美しさを誇っています。

義経は、この海からアジアに渡り、「チンギスハーン=義経」なんてトンデモ説まで存在します。
義経の伝説は、西は九州から北は北海道まで。ここまで全国にかけて伝説があるのは義経だけじゃないでしょうか。
この北海道だけでも、義経ゆかりの地は50近く存在します。義経の死後もたくさんの伝説が生まれ、その伝説は自分の地元である京都でもその地域に密着した形で現在も残っています。
是非、皆さんのお住まいの近くに義経ゆかりの所がないか探してみてください。面白い発見があるかもしれませんよ?


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  1. 2013/06/05(水) 00:00:19|
  2. 源 義経
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義経を辿って 総集編その3

3196
こんにちは
今回は、義経こと牛若丸と武蔵坊弁慶の五条大橋での戦いの話です。
この戦いは、とても有名ですが、実はこの戦いの詳細の元となった物が京都に存在します。
ある歌の歌詞です。

牛若丸
 
一、
  京の五條の橋の上、
  大のをとこの辧慶は
  長い長刀ふりあげて、
  牛若めがけて切りかかる。
二、
  牛若丸は飛びのいて、
  持つた扇を投げつけて、
  來い來い來いと欄干の
  上へあがつて手を叩く。
三、
  前やうしろや右左
  ここと思へば又あちら、
  燕のやうな早業に、
  鬼の辧慶あやまつた。

これは、京都の尋常小学校(今でいう小学校です)の唱歌として実際歌われていたものです。
今現存する歌舞伎や、我々の知っている五条大橋の戦いの話は、この歌が元になってるんです。
3197
絵巻なんかでは、このようにカッコよく戦ってるシーンが残ってますが、実はこの当時「五条大橋」はまだ存在していませんでした。なので、この五条大橋での戦いの話は、つい最近できたものでもあるんです。
3198
ちなみに、この歌が出来上がるまでは、弁慶と牛若丸の最初の出会いはこの清水寺と言われてきました。
そのせいか、この清水寺には弁慶に由来する物がたくさん残ってます。その辺の話は前回しましたよね。
3199
これは、今の五条大橋に立っている牛若丸と弁慶の石像。
左が弁慶、右が牛若丸なんですが・・・・えらくデフォルメされてますね(笑)
所詮は伝説・・・しかし、その伝説が京都ではとても密接に繋がっています。

次に、この義経の話の中でヒロインといえる人物、静御前。彼女と義経が最初に出会った場所「神泉苑」の紹介です。
3405
神泉苑は現在「御池」という通りに面しており、この「御池」というのも静御前が由来であるという説もあります。
神泉苑には竜神(善女竜王)が住むといわれ、天長元年(824年)に西寺の守敏と東寺の空海が祈雨の法を競い、空海が勝ったことから以後東寺の支配下に入るようになったとwikiには記されています。
863年に都に疫病が流行り、神泉苑で御霊会が行われたんですが、それが現在の祇園祭の元になったと伝えられています。
s3410
静は、讃岐~香川県~の大内郡小磯で生まれました。母は磯の禅師、信西入道が彼女に舞を教えたのが白拍子の始まりであると、徒然草には記されています。6歳の時、父に死に別れ、京に出て、母とともに白拍子としての名を上げていました。

1182年、日照りが続いた時に、後白河法皇が神泉苑の池で100人の僧に読経させましたが全く効果がありませんでした。そしてさらに、100人の容顔美麗な白拍子に舞わせ雨を祈らせました。その白拍子の100人目がこの静御前でした。
静が舞うとたちまち黒雲が現れ、3日間雨が降り続いたと言われています。静は法皇から「日本一」の宣旨を賜ります。
そんな静と義経の最初の出会いは、この神泉苑の池のほとりだったと言われています。
3406
神泉苑の中はこの様になっており、平安時代に貴族が船遊びをしていたそうです。
3407
隠れ観光スポットともいわれており、意外にしられていないんじゃないでしょうか。
義経と静が、どのような会話をしていたのか、記録には残っていませんが、そういう歴史を知ったうえでここを訪れると、また違った思いで鑑賞できるんじゃないでしょうか。


  1. 2013/06/03(月) 00:00:49|
  2. 源 義経
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義経を辿って 総集編 その2

鞍馬山には、この義経こと牛若丸の他に、もう一つの伝説が存在します。
3026
それが、この鞍馬山に住むと言い伝えられていた鞍馬天狗ですね。
上の絵は叡電の鞍馬駅に展示してある物です。
ちなみに、この鞍馬駅周辺にはこの鞍馬天狗にちなんで、天狗のお面がお土産として販売されてます(笑)
鞍馬天狗は、牛若丸に剣術を教えたことで知られていますが、和気清麻呂の子孫で 真如上人の弟壱演僧正ではないかとされる説も存在します。
3027
この鞍馬山、正直気持ちのいい場所ではないんですよね(汗)
なんというか、日中でも薄暗く空気が重い。
何かが住んでるんじゃないかと言われても不思議ではない雰囲気なんですよね。
そういう理由から、鞍馬天狗なる物が生まれた可能性もありますね。
3036
僧正ガ谷不動堂(そうじょうがだにふどうどう)です。
不動堂はその昔、伝教大師が天台宗開宗の悲願に燃え、一刀三礼の札を尽くして刻んだと伝えられる、不動明王が奉安されています。
鞍馬天狗が牛若丸と出合ったところと伝えられています。

3028
この場所は、牛若丸が剣術修行したと言い伝えられている場所です。
木の根っこが凄いことになっていて、あまり気持ちのいい場所ではありません(笑)
義経はこの鞍馬山で、あの有名な「八艘跳び」を身につけたとされています。
3029
この鞍馬天狗に限らず、武蔵坊弁慶など京都には、この人物たちを題材にした歌が今も残っており、義経伝説と京都はとても密接な関係にあります。



3122
次に、義経と並ぶもう一人の主人公 武蔵坊弁慶にスポットを当てていきます。
京都には、この弁慶に関する伝説がたくさん残っています。
・・・しかし、鎌倉幕府の史書として有名な「吾妻鏡」にはこの弁慶のことはほとんど載っていないんですよね。
名前は出てくるものの、彼の活躍等はほとんど記されていません。
ですので、今も残る伝説などは、後から創作されたものがほとんどのようです。
しかし、たかが伝説とはいえ、彼の痕跡、特に京都には地域に密接に関係しています。
ちなみに、諺でよく使う「弁慶の泣き所」、「内弁慶」など、現在でも頻繁に使われてるこれらも、この弁慶からきています。

「義経記」にはこう記されています。

生まれたときには2、3歳児の体つきで、髪は肩を隠すほど伸び、奥歯も前歯も生えそろっていたという。父はこれは鬼子だとして殺そうとしたが、叔母に引き取られて鬼若と命名され、京で育てられた。鬼若は比叡山に入れられるが、乱暴が過ぎて追い出されてしまう。鬼若は自ら剃髪して武蔵坊弁慶と名乗る。その後、四国から播磨国へ行くが、そこでも乱暴を繰り返して、播磨の書写山圓教寺の堂塔を炎上させてしまう。

相当な乱暴者であったことがうかがえます。
やがて、弁慶は京で千本の太刀を奪おうと悲願を立て、弁慶は道行く人を襲い、通りかかった帯刀の武者と決闘して999本まで集めそして、義経と出会うことになります。それがあの有名な「五条大橋の戦い」ですね。
その戦いの話は、次回にするとして、今回は京都に残る弁慶の痕跡を辿っていこうと思います。
3120
写真の場所は、清水寺の境内の入り口付近です。
弁慶が使っていた「鉄の錫杖」といわれています。
重さは大きい方が96キロ、小さい方が17キロだそうです。
これは一般の方も持ち上げることができ、持ち上げることが出来たら、ご利益があるとされ、たくさんの観光客が挑戦しています。
3121
こちらは、弁慶の履いていた鉄下駄。
一足12キロだそうです。
これも鉄の錫杖と同じところに展示してあります。
3123
所変わって、こちらは市内の三条御幸町通りにある石「弁慶石」です。
この石にはたくさんの諸説があり、弁慶が「五条橋から投げた」とか、「比叡山から投げた」とかいわれてます。
伝説ではこの弁慶石は弁慶が幼き頃住んだ三条京極にあって、弁慶の遊び石だったともいわれています。
現在では「男児がさわれば力持ちになる」とか、「火魔、病魔から逃れることが出来る」とか云われているそうです。
ちなみに、この石のある所の町名は「弁慶町」。
たかが伝説といえど、地域とかなり密接している様子がうかがえます。

  1. 2013/05/30(木) 00:00:23|
  2. 源 義経
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義経を辿って 総集編 その1

今回の記事は、2年前に始めたシリーズで全10回にわたって記事にしたものを総集編としてまとめたものになっております。1年かけて記事にしたシリーズでもあり、個人的に思い入れもある話です。
あれから2年たち新規の来訪者さんもおられ、知らない人もいるだろうし、1回こっきりで終わってしまうのももったいないと思い、記事をまとめて再掲載してみました。この記事を期に、「義経」という人物像に興味を持っていただければ幸いです。



2814

1159年、源氏の棟梁・源義朝の子供として牛若丸(義経)が誕生します。
母親は、1000人の少女の中から選ばれ、中宮に仕えた常盤という女性。
同じ年の冬、藤原信頼に加担して挙兵した義朝が平清盛の軍に敗れ敗走してしまいます。
常盤は源氏の血を受け継ぐ子供たちが命を狙われるのを恐れ、身を隠します。

その身を隠した場所が、京都 清水寺でした。
常盤はこの清水寺にある、十一面千手観音を深く信仰しており、心の拠り所にしていました。
(現在、この十一面千手観音は、国宝中の国宝で33年に一度しか開帳されません)
わが子のために十一面千手観音に加護を念じる声は寺内の僧たちを粛然とさせたと伝えられています。

しかしそんな中、常盤の母親が娘と孫の居場所を尋問するために、囚われてしまいます。
それを聞いた常盤は、母を取るか子を取るか、葛藤の末、出頭する道を選びます。

その時、平清盛自身が審議したと言われています。
1000人に一人の美女と言われた常盤を是非見てみたいと思ったのでしょう。
常盤は母の釈放と子供の安全を懇願し、清盛は牛若丸を鞍馬の仏門に入れるのを条件に受け入れます。

この時、清盛はすでに常盤の美しさに、心を奪われていたようで、その後常盤と清盛の間に一女をもうけ、清盛の計らいで藤原長成の妻になったと記されています(この時代の貞操観念が自分にはよくわかりませんw)
それほど、常盤という女性は絶世の美女だったんでしょう。

しかし、ここで平清盛は常盤の情に流され、致命的な失敗をしてしまいます。
それは、非情に徹することが出来ず、牛若丸を生かしていたことです。
後に、壇ノ浦の戦いで、牛若丸こと義経に平家が滅ぼされてしまうわけですから・・・。

2911
その後義経は、この鞍馬山にある鞍馬寺に7歳のころから10年間預けられていました。
その間、この山には様々な伝説を残し今に至っています。
2913
京都に住んでる人なら分かるんですが、この山冬場はめちゃくちゃ寒くなり、雪の積もり方も尋常じゃありません。
冬は、同じ京都とは思えないほど厳しい環境になります。こんな所に小さな子供が10年も過酷な環境で過ごしていたわけですから、想像できないですね。逆にこんな厳しい環境だからこそ、数々の伝説を残すほど強く育ったと言えるかも知れません。
2914
これは、義経が剣修行の時に喉を潤したと言われる湧水で、現在もその水は湧き続けています。
2916
この石は、17歳になった義経が修行を終えこの山を下りる際に名残惜しんで、背を比べた石だそうです。
ここの立札には、義経伝説はここから始まったと書かれていました。
2917
義経堂です。
奥州衣川の合戦で亡くなったとされる義経の魂が幼少期を過ごしたこの地に戻り、今も生き続けていると信じられ建てられたものです。
その横にはとても大きな木が祭られています。
2918
この写真に納まりきらない大きな木は、全国各地に伝説を残した義経の生命力を表してるような気がします。


  1. 2013/05/26(日) 00:00:21|
  2. 源 義経
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義経を辿って(最終回) 義経伝説の始まり

こんにちは
前回で、義経の史実としては終わりとなります。
しかし、義経の死後も伝説は独り歩きし始め、日本各地に数多くの伝説が残っています。
今回紹介するのもその伝説の一つ北海道の神威岬です。
頼朝からの逃亡の際、義経はここからアジアに渡ったと言い伝えられています。

実はこの義経シリーズを始めるきっかけだったのが、この神威岬だったりします。
この北海道の写真を撮りに行くちょっと前に前回紹介した奈良吉野の写真を撮りに行ったんですが、その時初めて義経に関心を持ったんですが(前々回紹介した壇ノ浦で義経の像を見た時は全く関心ありませんでしたw)、この北海道の神威岬の事を調べていたら、ここでも義経の名前が出来てきときは驚いたもんです。
「九州や奈良で義経は分かるけど、なんで北海道まで義経の話があんの?!」、と(笑)
よっぽどスケールの大きい男だったんだなあっと。それが記事を書くきっかけでした。

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奥州からひそかに逃れた源義経は、逃避行の際日高の首長のもとに身を寄せ、首長の娘チャレンカは義経を強く慕うようになります。しかし、義経は旅立ってしまい、悲しみにくれたチャレンカは、「和人の船、婦女を乗せてここを過ぐればすなわち覆沈せん」という恨みの言葉を残して海に身を投げてしまいます。その姿がやがて岩と化したと言い伝えられているのが神威岩です。
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チャレンカの嫉妬心が女を乗せた船を転覆させたことから、岬一帯が女人禁制の地になったとされています。
この女人禁制は1855年まで続き、それまで船の行き来は禁止されていました。
そのせいか、この神威岬の海は汚されず、現在でも北海道屈指の海の美しさを誇っています。

義経は、この海からアジアに渡り、「チンギスハーン=義経」なんてトンデモ説まで存在します。
義経の伝説は、西は九州から北は北海道まで。ここまで全国にかけて伝説があるのは義経だけじゃないでしょうか。
この北海道だけでも、義経ゆかりの地は50近く存在します。義経の死後もたくさんの伝説が生まれ、その伝説は自分の地元である京都でもその地域に密着した形で現在も残っています。
是非、皆さんのお住まいの近くに義経ゆかりの所がないか探してみてください。面白い発見があるかもしれませんよ?

今回で義経シリーズは最終回になります。
最後までお付き合い頂き、ありがとうございました。
最後まで行けるか、正直かなり不安でしたが、皆さんのコメントと拍手に励まされ最後まで記事にすることが出来ました。
ほんとうにありがとうございました。

既に新シリーズの構想は出来上がっているので(写真はまだ撮りに行ってませんがw)、近いうちにその予告を記事にしようと思っているので、ご期待ください。

テーマ:大河ドラマ - ジャンル:その他

  1. 2012/02/02(木) 00:00:07|
  2. 源 義経
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